|
禅宗の僧侶の世界には、臨終にあたってその境地を漢詩に託し、遺言として後の世に示す、遺偈(ゆいげ)という習わしがあります。
先月の末、長い闘病の末に逝去された、筆者の学生時代からの友人である佐久間光昭師の遺偈を、ここに謹んでお知らせさせていただきます。
五十一霜(ごじゅういっそう) 五十一歳の生涯を
莫言短長(たんじょうをいうなかれ)短いとか長いとか言ってはいけない
如来掌中(にょらいのしょうちゅう)私はただ如来の手の中で
唯行家常(ただかじょうをぎょうずるのみ)
毎日の生活をおくっていただけだ
五十一霜とは五十一の星霜ということで、歳月という意味です。そうか…、彼は数えで五十一歳、私は早生まれだから五十霜となります。
莫言短長。普通は長短と書くところですが、四行目の「常」と脚韻を踏むために短長となっております。仏教読みをする時、「ん」が入ると、次の言葉が濁るという約束によって、「たんじょう」となります。「たんじょう」は「誕生」につながると思うのは、私の読み込み過ぎでしょうか。残念ながら、もう本人に確かめる術はないというわけです。
平均寿命とか、親の死んだ年などを意識して、それより長生きしたいとか、短い人生は気の毒だなどと言うことがないでしょうか。でも、人生の長さを人と比べても何の意味もありません。七十年の人生も、二十年の人生も、一生涯の重さには何の変わりもありません。私はすなおに、生涯の歳の長さを比べることはするまいと思います。それが、彼の遺言だからです。そう…、彼がそう言っているのだから、ちゃんとそれに従ってゆこうと思います。
如来掌中。孫悟空を思い出しますね。飛んだり跳ねたり、精一杯飛び回ったところで、所詮は如来の掌の上からはみ出すなんていうことは、できるはずもないのです。そのかわり、どんなに落ち込んだって、病に苦しんだとしても、仏さまの慈悲と智慧の内にしっかりと包まれていたのです。
唯行家常。家常は日々の日常のことを意味します。よく平常心という言葉を聞きますね。高校野球の監督の談話などでは、平常心とは、ことさら緊張もせずにリラックスして臨む心、という意味に取られがちです。でも本当は計らいなく是非なく、取捨なく凡聖(ぼんじょう)もなく、生死もなく、ただ淡々と黙々と、日常にすべきことのありのままを行ずることを意味するのです。これまでも、そして、これからも変わりなく、永遠に…。
私は、光昭和尚を先達と仰ぎます。いい言葉を遺してくれました。
|
|
|
明治寺;〒165-0025 東京都中野区沼袋2-28-20 |
|
◆6月 2日(日) 午前9時より 写経の会 ◆6月 6日(木) 午後1時半より 法話の会(志ん朝落語について) ◆6月17日(月) 午後1時より 百観音月例法要〜観音経読誦と法話〜
◆6月12,26日(水) 午後6時半より 心の坐りを味わう、坐禅の会 |