ひとくち伝言 平成14年6月
(百三十一号)


 禅宗の僧侶の世界には、臨終にあたってその境地を漢詩に託し、遺言として後の世に示す、遺偈(ゆいげ)という習わしがあります。
 先月の末、長い闘病の末に逝去された、筆者の学生時代からの友人である佐久間光昭師の遺偈を、ここに謹んでお知らせさせていただきます。
 五十一霜(ごじゅういっそう)   五十一歳の生涯を
 莫言短長(たんじょうをいうなかれ)短いとか長いとか言ってはいけない
 如来掌中(にょらいのしょうちゅう)私はただ如来の手の中で
 唯行家常(ただかじょうをぎょうずるのみ)
                  毎日の生活をおくっていただけだ
 五十一霜とは五十一の星霜ということで、歳月という意味です。そうか…、彼は数えで五十一歳、私は早生まれだから五十霜となります。
 莫言短長。普通は長短と書くところですが、四行目の「常」と脚韻を踏むために短長となっております。仏教読みをする時、「ん」が入ると、次の言葉が濁るという約束によって、「たんじょう」となります。「たんじょう」は「誕生」につながると思うのは、私の読み込み過ぎでしょうか。残念ながら、もう本人に確かめる術はないというわけです。
 平均寿命とか、親の死んだ年などを意識して、それより長生きしたいとか、短い人生は気の毒だなどと言うことがないでしょうか。でも、人生の長さを人と比べても何の意味もありません。七十年の人生も、二十年の人生も、一生涯の重さには何の変わりもありません。私はすなおに、生涯の歳の長さを比べることはするまいと思います。それが、彼の遺言だからです。そう…、彼がそう言っているのだから、ちゃんとそれに従ってゆこうと思います。
 如来掌中。孫悟空を思い出しますね。飛んだり跳ねたり、精一杯飛び回ったところで、所詮は如来の掌の上からはみ出すなんていうことは、できるはずもないのです。そのかわり、どんなに落ち込んだって、病に苦しんだとしても、仏さまの慈悲と智慧の内にしっかりと包まれていたのです。
 唯行家常。家常は日々の日常のことを意味します。よく平常心という言葉を聞きますね。高校野球の監督の談話などでは、平常心とは、ことさら緊張もせずにリラックスして臨む心、という意味に取られがちです。でも本当は計らいなく是非なく、取捨なく凡聖(ぼんじょう)もなく、生死もなく、ただ淡々と黙々と、日常にすべきことのありのままを行ずることを意味するのです。これまでも、そして、これからも変わりなく、永遠に…。
 私は、光昭和尚を先達と仰ぎます。いい言葉を遺してくれました。


百観音明治寺 住職 草野榮應







  ひとくち伝言板  

明治寺;〒165-0025 東京都中野区沼袋2-28-20



平成14年(2002年・仏紀2567年)6月の行事ご案内

6月 2日(日) 午前9時より  写経の会

6月 6日(木) 午後1時半より  法話の会(志ん朝落語について)

6月17日(月) 午後1時より 百観音月例法要〜観音経読誦と法話〜

6月12,26日(水) 午後6時半より 心の坐りを味わう、坐禅の会




 5月15日のバス旅行では、那須の雲照寺さんにお世話になり、たいへん楽しくゆったりとした一日となりました。感謝しております。ふるさとの緑の景色をしみじみ眺め、ここはいいところだなあと改めて思った次第です。

 今年の 百観音献灯会は、7月28日(日)です。
 どんなおまつりにするか考える、と言っても、いつもと大きくは変わらないものになりますが、こつこつと「今年はここが新しい」と思っていただけるような部分も作ってゆこうと思っています。どうぞお楽しみにしてください。

 表のひとくち伝言で触れた佐久間光昭師のご実家のお寺、豊岡の乗雲寺様は、寺報「法灯」を発行しておられますが、そこにもときどき恐縮ながら「ひとくち伝言」を取り上げてくだっております。何年も前の「ひとくち」がひょっこり掲載されていたりするのを見ると汗顔の思いをしますが、それがまた巡り巡っていろいろなご縁をつなげてくださることもあって、
「ああそうだ、光昭師が様々なきっかけを作ってくれたのだっけ…」と、改めて思いました。その人の「生命」と「いのち」とは違うものであって、その人の残した価値観やしごとや「仕掛け」は、その人を離れてもはたらき続けてゆくものであることを知りました。いろいろななつかしい人の残した「仕掛け」によって、私もことことと動かしていただいている、そんな思いがしています。
 天候不純の折り柄、どうぞみなさまご自愛ください。






東京都中野区沼袋二ノニ八ノ二〇
百観音明治寺 草野榮應