ひとくち伝言 平成14年7・8月
(百三十二号)


 仏教の論書のなかに、蛇縄麻(じゃじょうま)の譬えがあります。
 ある人が草むらの暗がりに何やら細長いものを発見して、「蛇だ!」と思い込むとします。すると、その瞬間に胸は高鳴り、冷や汗が出てきたりします。なにしろインドでは、蛇と言えばコブラかも知れませんからね。ところが一向に動く気配がないので、恐る恐るもう一度よーく見てみると、実は縄の切れ端なのでありました。「なあんだ、縄の切れっ端かあ。」と思うと、もう鼓動は静まり、すっかり緊張がほどけてしまいました。恥ずかしいやら、からかわれたような気持ちになって、やがてそれも忘れてしまいます。
 これは、私たちがどのように外界の物を認識するかという議論のなかで出てきた譬え話なのでありますが、実際は縄だったのに、ありもしない蛇という思いをくっつけて、「蛇がいる!」と思い込んでしまったのは、心の働きによるものでありました。こういう時によく、「だまされた!」と言う人がいますけれども、だましたのは誰かというと本人の心であったわけですね。自分で自分をだましていたのです。
 その譬え話には続きがあって、それは蛇ではなくて縄だったと彼は知ったわけですが、しかし、実はこれさえも本当ではないのであって、真実は「縄に編まれた麻の繊維」にすぎない訳です。そこがまた大切なところなんですね。「今度は本当の姿だ」と思っても、それもまた新たな「思い込み」にすぎないのであります。だから、「それは麻の繊維だ」という認識だって彼が判断したことの内容なのであって、本当のところはどうなのか分からない。麻ではなくて藁の束かもしれないし、ビニールのひもかも知れない、ということになっていきます。(実は、縄とそっくりの姿の蛇だったということもあるかも知れません。そうすると振り出しに戻ってしまいますね。)
 以前にもご紹介した「伝えることば」のなかに、「理解したことも誤解の一部であると心得れば、相手を責めることは少ない」という言葉があります。これは実に仏教的な反省をふまえた言葉であることがわかります。 蛇縄麻の譬えのなかで大切なことは、その人が「恐る恐るもう一度よく見る」という勇気を持って、そこから目をそむけなかったことですね。そしてまた、自分が一度こうだと判断したことを「疑う」ということも、さらに勇気が要ることです。なぜなら、わが心が都合の良いように物事を判断してしまっている場合が意外に多いからです。
 真実に向かっての絶え間なき歩み、これが「羯諦羯諦」なのでしょう。


百観音明治寺 住職 草野榮應