ひとくち伝言 |
平成八年十月(七十四号) |
森本哲郎さんのお話を面白く聞きました。森本氏は以前、毎年暮れになるとサハラへ行って年末を過ごすのを続けておられました。ある時、砂漠のかなたに沈む落日の景色に遭遇したので、運転手に告げて車から下り、仲間とー緒に感激しながらじっと見つめていたんだそうです。陽がすっかり沈み、やがて一同はある種の厳かな気持ちで車に戻ってくると、運転手が言いました。
「ずいぶん長い用足しだな」
「いや、我々はあの美しい夕日に見とれていたのだ」
と応えると、運転手は不思議そうな顔をして、
「お前の国では太陽は沈まないのか」
と言ったというのです。そもそも砂漠の国では太陽は人間を苦しめるものであり、それを国旗にするなんて気が知れないというのが、あちらの感覚なんですね。
森本氏がサハラへ行く時には、日本の古典を携えて行きました。太陽のギラギラ照りつける砂漠の中で、「さみだれの 降り残してや 光堂」なんていう句を読むと、その落差には強烈なものがあるそうです。土地の人が「お前の国で有名な詩とは、どんなものか」と尋ねてきたので、芭蕉の「古池や」の句を説明したそうです。
「古い池があってな…」
「オアシスの泉のようなものだな」
「そこへカエルという動物がやってきて…」
「ふむ・・」
砂漠に住む種類の蛙もあるので、通じるらしいんですね。
「そいつが水の中へ飛び込む音がしたのだ」
「それで?」
「おわりだ」
「えっ、何だって!?」
と、こうなっちゃった訳ですね。
私だったらその場合どんな説明をしただろうと考えて、はじめてこの有名な俳句を、私は本当には理解していないことに気づきました。あまりにも有名で分かりきってると思っていた俳句なので、なぜこれが名句なのかも考えずに過ごしておりました。さて、森本氏はその後どう続けられたか語りませんでしたが、いずれにしても長い説明が必要です。春を表す蛙と池と音の三つを心にインプットした瞬間にぱっと立ち上がる世界があり、我々はその印象世界が池の波紋のようにすーっと広がってゆくのを楽しむのだとか何とか、いろいろと説明が付いただろうと思います。それが理解されたかどうかは別として、彼らは多分またこう尋ねたでしょう。
「どこにそんなことが書いてあるのか」
「いや、言葉と言葉の間から浮かんでくるのだ」
「お前たちは、書いていない文字を読むのか?」……
私たちが何に気付いていないのかに気付くということが、どんなに興味深いことかということに、気付かせてもらいました。(栄)
ひとくち伝言板 |
十月の行事のご案内 |
---|
十月六日(日) 午前九時より 写経の会 十月十七日(木) 午後一時より 月例 百観音 法要 十月二十日(日) 午前九時半より (英語版)「阿字観」入門 十月九、二十三日(水) 午後六時半より 坐禅の会 |
※ 「ひとくち」に関するQアンドA問
真言宗には、「阿字観」という瞑想法があります。ドライトライン・瑩浄さんが高野山でマスターしてこられました。これを外国人のために教えたいということで、英語による「阿字観入門」を開講することになりました。勿論日本人でも参加を歓迎いたします。覗いてみるだけでも、価値ありそうです。
季節の変わり目、どうぞお体をお大事に。合掌 |