如来蔵経の中に「隠された宝」を表すたとえが色々出ています。
(1)「蓮華の中の諸仏」・・・池の水面に清らかに咲く蓮の花のひとつひとつに、小さな仏さまが坐っているのですという観想・・・。美しい情景ですね。
(2)「蜜蜂に囲まれた黄金の蜜」・・・蜂の群がる巣の一番奥に、金色の蜜が秘められています。
(3)「殻に包まれた米や麦」・・・もみがらをむくと、真っ白い米や麦の粒が出てきます。それが私たちの命の糧です。
(4)「不浄処に落ちた金塊」・・・それでも金は金。拾い上げて、よーく洗えば何の問題もありません。
(5)「あばら屋の地下に眠る宝蔵」・・・地下に財宝が埋まっているとわかった上でのあばら屋暮らしは、贅沢なものです。
(6)「樹木の種子」・・・松の実はあの木のどこになるのか、錦松梅を食べる度に不思議に思いました。
(7)「ぼろきれに包まれた仏像」・・・ぼろは着てても心は錦。
(8)「貧窮女の懐胎する転輪王子」・・・転輪王とは国王のことです。事実なら物議をかもしそうですが、譬えですから・・・。
(9)「鋳型の中の宝像」・・・土の鋳型を除いてゆくと、黒く光る仏像が出現してくるのは、感動的でしょう。
「如来蔵(にょらいぞう)」の信仰は、大乗仏教の大切な柱のひとつです。それは「石くずの中に宝石の原石がまぎれているように、何の価値もなさそうに見えるものの中にも必ず磨けば光るものがあるのだ」という、人間の可能性への確信です。弘法大師(空海)はそれを、「薬草の専門家にとっては、道端の雑草も薬である。鉱物を知る人は、鉱石を宝と見る。」といわれ、見抜く側の智慧を問題にしました。また別の所では、こういう言い方もしておられます。「もしも世の中に、悟った人、つまり仏ばかりしかいなかったら、仏様があえて教えを説くことはなかっただろう。この世には、煩悩にまとわれ、苦しむ人がひしめいているからこそ、如来は憐れに思って教えを世に顕わしてくださったのだ。ならば、人間の迷いの中にこそ仏の教えが我々に導かれる糸口があったということになる。」
清水寺の故大西良慶さんは、私の記憶では確か、ここをこう言われたと思います。「もしも世の中が、悟りを開いた人ばかりやったとしたらね、仏さん、仕事がのうなって、あがったりやの・・・。」さまざまな表現の綾がとても面白いと思います。
もっとも、誰も煩悩をそのままいいと言ったのではなくて、煩悩を煩悩として正面から見つめる、あるいはその苦しみを味わうことから、煩悩を抜け出す道が見えると言われた訳ですけど。
(栄)