ひとくち伝言 平成11年4月(99号)





 永田和宏氏が次の歌を紹介しておりました。(講演「歌をよむ面白さ」)
三輪山の背後より 不可思議の月立てり はじめに月と呼びし人はや
これは歌人中山ちえ子さんの作で、最後の「はや」は、「文末につけて深い感動や愛惜などの気持ちをあらわす」と辞書にありました。意味は「はじめて月と呼んだ人がいたんだよねぇ、はぁー…。」ぐらいでしょうか。
 奈良の三輪山というのは、なだらかに均整の取れた美しい山で、昔の人はこういう穏やかな風景の中に神が宿ると考え、三輪神社の御神体として伝えてきた山です。その山から、満月が立ち昇ったと想像しましょう。月は三輪山の神格を帯びて、神々しい光を放っていたことでしょう。歌人にはその時、何百遍も見てきたはずの月が全く初めて見るものに思えたのです…いや、私が決めつける訳にはいかないので、歌の言葉から私はそのように想像しているのですが、もちろん、以下も私の思いです。
 「はるか昔、万葉びとたちもこの月を見ていた…。さらに太古の昔、まだそれに名前がなかった時代にも人々は同じものを仰ぎ見ていたはずだ…。そして、ある時初めてそれを『つき』と呼んだ人があったはずだ…。昔、きっといたに違いないその人の、その時の心を、私は深く深く思わずにはいられない」。歌は、遙かな時間を越えて、どこの誰とも知れない人への共感さえ、詠むことができるのですね。これは、とてつもない歌です。
 ものに名前が付くということは、それが何らかの意味をもってその人に意識されるということです。「つき」と名付けられた時、それははっきりと月としての意味を帯びて、そこに立ち現れたのでした。月が立ち現れたということは、月以外のもの、空や山や、森や樹が、立ち現れることを意味します。つまり世界が立ち現れたのです。もっとも「世界」なんていう言葉は元来仏教語ですが、その言葉を知る前と後では世の中の見え方が全然違ったことでしょう。実は、我々はすでに、その言葉を知らない世界に戻ることは絶対にできないということも、厳然たる事実です。
 この歌のもうひとつの衝撃は、単に月だけではなく、あらゆる無数の事物には初めから名前があったのではなく、すべては後から名前を付けられたということに気づかせる事です。ということは、その一々に必ず名前を付けた人がいたということであり、それが伝えられて来たということなのですね。とうとう、なまこやふぐではすまないところへ来てしまいました。 私は今、初めて「さくら」と呼んだ人のことを考えようとしています。
(榮)






   ひとくち伝言板   


平成11年(仏紀2564年)4月の行事ご案内

4月 4日(日) 午前9時より  写経の会

4月 8日(木) 花まつり(お釈迦様誕生日) 甘茶供養(終日)

4月 6日(火) 午後1時半より  法話の会

4月 17日(土) 午後1時より  百観音月例法要 ならびに観音経読誦 と 法話

4月14,28日(水) 午後6時半より ゆったりすわる、坐禅の会




 4月8日(木)は、 花まつり(朝から夕方まで)

 同 午後7時より花まつりコンサート「バロックの終焉」 (本堂にて)
  ・チェンバロ演奏 武久源造
  ・朗読      雨宮慶子(詩人)

 今回のコンサートは、大バッハの時代が終わりを告げようとしている時代が、とりもなおさず、小バッハやクープランなど、新しい音楽が芽生え始めている時代であることを意識した構成になっているのだそうです。今年と来年は世紀末というより、トンネルの出口が見えてきた時代なんだと言っていたら、武久さんが音楽で同じことを語ろうとしていたので、驚いてしまいました。そう言えば、吉田兼好も、枯れ葉が散ったから次に芽が出るのではなく、新しい芽がきざしているから古い葉が散るのだと言ったような気がします。
 今回は、クープランの曲に合わせて詩人の雨宮塔子、いや雨宮慶子さんが自作の朗読(ヴォイス・パフォーマンス)をしてくださるそうです。どんな世界が展開するか、またまた楽しみです。

 切手代感謝録/魚田順子様、杉浦暁美様、市川鶴子様、田中恵江様、岩田このみ様、古屋美也子様、山崎友正・久美子様、谷原光枝様、野口美苗様、藤田美奈子様、落合洋様、匿名様





東京都中野区沼袋二ノニ八ノ二〇
百観音明治寺 草野榮應