ひとくち伝言 平成11年6 月(101号)





 歌づいてしまいましたが、もうひとつ短歌にお付き合い下さい。
父十三回忌の膳に箸持ちて我は喰う蓮根および蓮根の穴を
小池光
 前回と同じく、永田和宏さんのお話に出てきた字余りの歌ですが、最初聞いた時には、これは一体何が言いたいんだろうと考えてしまいました。
 法事の後のお膳に蓮根の煮物が出たんですね。おもむろに箸でつまみ、食べようとしてふと思ったわけです。「そう言えば、蓮根を食べればどうしても蓮根の穴も一緒に食べることになってしまうんだなあ。」…
 蓮根の小話がありますね。「君が嫌いな食べ物は何だい?」「僕は蓮根がきらいだ」「蓮根のどこがきらいなの」「穴のところさ」「じゃあ、穴だけ残せばいいじゃない」「あ、そうだね」。後で見たら蓮根の穴ばかりが皿の上に並んでいました…。これは子供向けの笑話ですが、大の男がおごそかに「我は食う、蓮根および蓮根の穴を」という、それだけのことで歌が一首できてしまっているなんて、何かとぼけていますね。
 評者の永田先生は、「認識の面白さ」を言われました。この歌を聞いて「あ、そりゃそうだな」と思った人はこれ以後、蓮根を食べるたびに必ず、穴も食べてるんだと意識するに違いない、あなたはもう二度と無邪気に蓮根を食べることはできない、という恐ろしい話をしておられました。
 この歌が詠まれたのはただの食事ではなく、父親の十三回忌の法要後の会席でありました。たぶんお経の間、作者は色々なことを考えたことでしょう。十三回忌となればある程度の距離をもって父親の人生を思うこともでき、またそれに自分自身の人生を重ねてみることもあるわけです。私は「蓮根および蓮根の穴」というのは、「生死(しょうじ)」の分かち難いことだと思うのです。生を受けているということは、とりもなおさず死を受けることであり、後の方だけを皿の上によけておく事はできないのです。
 もしかしたら別な意味の生死が込められているのかも知れません。「法事や葬式でもないとなかなか会えないねぇ」と言うのをよく耳にすることがあります。でも本当は「亡き人が会わせてくれるんだねぇ」と言うべきことなんだと思うんですね。故人はすでに没しても、遺されたはからいを私たちはちゃんと受けているという事実があるわけです。当人はただ生の部分を生きているつもりでも、死んだ父親の力を彼は現に受けている、生をいただいていながら死もいただいているのだと、そういうことなのかも知れません。これは蓮根に似て、歯応えと味わいのある歌ですね。
(榮)






   ひとくち伝言板   

平成11年(仏紀2564年)6月の行事ご案内

6月 6日(日) 午前9時より  写経の会

6月 17日(木) 午後1時より  百観音月例法要 ならびに観音経読誦 と 法話

6月9,23日(水) 午後6時半より ゆったりすわる、坐禅の会




 塩船観音参拝と緑の奥多摩 ご報告

 当日は雨模様でどうなるかと思いましたが、行く先々はどこも静かでしっとりとしていて、参加された14人はみんな大喜びでした(と思います)。塩船観音の裏庭も吉川英治記念館の庭園も、雨に洗われて、清らかでした。
 天気が良いと「心掛けが良かったから」と言いますが、これを言っていると、心掛けが良くても雨になってしまう場合にはちょっと困りますね。でも雨には雨の楽しみ方があると思っていると、いつの間にか晴れ上がっておりました。やはり心掛けが良かったのでしょうか。
 日程を雨用に切替えたので、却ってゆっくりと時間が取れて、滅多に見られないような、澄みきった奥多摩湖の景色も堪能できました。紅梅庵のくず切りとままごと屋の精進料理、おすすめです。

 いたずら電話の防止にはお経のテープが役に立つと、週刊誌の記事にありました。意外な役立ち方があるものですね。欲しい方はお申し出くだされば、録音を差し上げます。(効き目の程は保証いたしかねます)。また、しつこい新興宗教の勧誘で困っておられる方には次の手があります。仏教聖典(仏教伝道協会編)を玄関に一冊置いておき、この聖典を買いなさいとせまるとすぐ帰っていくそうです。ご参考までにと思いまして。

 切手料感謝録 風間小枝様、杉浦暁美様、魚田順子様、有り難うございました。



東京都中野区沼袋二ノニ八ノ二〇
百観音明治寺 草野榮應